そう、世話される側の負い目や卑屈という、「依存」がもたらす世界を実体験する羽目になった。
私は長年の友情が壊れてしまう恐れから、意を決して世話になりたくない、と告げた。
親友にとってそれは思いもかけない一言だったに違いない。
好意でやっていることなのにと。
それに対し、私の心の持ちようが問題なのに、その理由をうまく表現できない自分がいた。
「ケアをすること」と「ケアをされること」の間には、計らずも「依存させる」「依存する」の関係性が立ち上ってくる。
それは強者と弱者の関係でもある。
私たち日本人は「人」を表すとき、多くの場合「人間」と言う。
専ら「ヒト」は生物的な場合に遣い、ヒトが人間になるためには、間、距離、関係がなければならない。
だからこそ、関係のあり様が個人の生活、生き方を大きく左右する。
ケアの現場は関係性の宝庫だ。
ケアはいかに人間の尊厳を保つか、自立を支援するかが目的だが、目的を果たすためには、依存・共依存や強者・弱者という関係性を克服することが課題となる。
とすれば、人と人の“間”に“何”をおけばいいのだろうか。私の求めるケアの「質」とはそれを探し出すことなのだと思う。